Electric Counterpoint を経て Territorial Counterpoint に向けて

僕は電車に乗るのが好きだ。
乗車した車両が現在で、後部の車両が過去。もちろん進行方向は未来だ。
そんな命題として普遍的な題材を実感できる。
決まったレールの上を起点から終点の同じ距離を走るという決まりごとの上で同じ景色は二度とない。
 
現代美術の企画をしていた頃、2011年に中島麦と武内健二郎というニ人の現代美術家にコラボレーションをお願いしたことがある。

中島麦は近年関西で最も活躍する抽象画家の一人で、武内健二郎は詩人であり今尚、関西具体派出身者を支える一人だ。そんな大先輩二人にA駅からB駅へ、別々の日に同じレールを同じ距離移動していただいて、その旅の体験をそれぞれに絵と詩にして展示の際にお披露目をした

言葉にはならないが展示はまさに距離や時間を超えて且つ説明的にならないという一つの完成形を見せた。もし同じ車両で同時に移動したならば、絵に詩を乗せるという行為はあまりに説明的になったかと思う。それを回避できたのは、別の体験をしながら移動したこと、そして体験を通して作品を制作するという未来にそれぞれが貪欲に取り組んだからだと僕は考える。

ある種この展示によって僕は企画をするということに満足してしまったように思う。
その後も2.3年様々な企画に参加しているが、彼ら二人を超えるものはなかった。
僕は自分自身の創作活動で二人が観させてくれた到達点に向かうことにし、企画をやめた。

自身の活動を続けていく中で音楽家たちと時間を共にすることが増えてきた。
それはブルースとサマーオブラブに呪われて一生を費やした父の元に育った僕にとってはごく自然な成り行きだ。

父ら世代の音楽家がエレキギターや電子楽器を手にしたように、僕ら世代の音楽家にはDJという手段が存在していて、僕はDJが何をどう表現していくかに興味がある。僕にとってDJのそれは、ダダイズムの時代に仕掛けられた装置や関西具体派の時代の装置と破壊を思わせ、能動的に再構築が生む新しい可能性へと思考を向かわせる。その再構築が後にどんなものを残すのか今はわからない。しかし、少数であれど可能性をチラつかせてくれるDJが居ることに喜びを感じて寄り道しようと思う。中村光貴はその可能性を感じるDJだ。
 
中島麦と武内健二郎の展示では、旅で過ぎ去った時間、風景と結果における表現で完成形を観た。
中村光貴のDJでは、というとそれは電車そのものだ。DJが表現する最中に出会うものや過ぎ去るものには自分自身が勝手に向合うのだ。

ふと今は僕があの時の電車の旅にあるんだと思う瞬間がある。僕を創作に向かわせるいい瞬間だ。

服田雄介